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福岡高等裁判所 昭和44年(う)524号 判決 1969年12月09日

被告人 藤原敏雄

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

弁護人岩本幹生が陳述した控訴趣意は、記録に編綴の同弁護人提出の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。

弁護人の控訴趣意中、理由不備について。

所論は、まず、原判決の罪となるべき事実の摘示は、注意義務の内容および義務違反の行為について具体性を欠き、しかも同摘示の三個の注意義務が結果と如何なる関係にたつのか不分明である点に、理由不備の違法がある、というにあるが、原判決の罪となるべき事実の摘示は所論のように具体性及び因果関係に分明でない点があるとは解し得ず、その説示自体で充分であると認められるから、所論のような理由不備は存在しない。

弁護人の控訴趣意中、法令の解釈適用の誤および事実誤認について。

所論は、原判決摘示の注意義務は、いずれも成文上は勿論、条理上といえども存在しないものであるから、これらが法律上存在すると肯認する原判決には、これらの点につき法令の解釈適用の誤りがあるというにある。

ところで、原判決摘示の注意義務の存否は、本件の事実関係が確定された後、はじめて検討されるべきものであるから、この点の審按はつぎの事実誤認の判断の過程でなすのが相当であろう。

そこで事実誤認の論旨につき検討をすすめるに、所論はまず、原判決は被害者田中の転落原因を被告人が急激に加速進行したことにあると認定している点に事実誤認があるという。

しかし、当裁判所の調査嘱託回答書によれば、被告人の運転した第一種原動機付自転車(三九年式スーパーカブ号五〇CC)が、体重約六〇瓩の大人二人を乗せて時速一〇粁から加速するため、セカンドギヤでスロツトル急開しても時速三〇粁になるまでにおよそ七秒、距離にして三八米を要すること、しかしてそれ程急激な加速力のないこと、しかも加速の仕方は比例直線的であることが認められるところ、実況見分調書二通ならびに、被告人の検察官に対する供述調書によれば、時速約一〇粁で走つていた被告人がセカンドギヤで加速をはじめてより、田中が転落するまでの距離は約一一米であることが認められるので、被告人の右加速により田中が転落する程の急激な衝撃を受けたとは到底考えられない。

しかして、原判決には田中の転落原因につき、所論のとおり事実誤認があると同時に、右のように被告人の原判示加速が転落原因にあたらず、この程度の加速力では後部荷台に乗車しているものが、その反動で通常転落するおそれがないとすれば、普段単車の後部荷台に乗りつけていたと認められる前記田中を、たとえ、乗車設備の設けられてない該自転車の後部荷台に乗車させていたのであつても、被告人には、所論のとおり、原判示の「後部荷台に乗車している前記田中が加速による衝動で身体の安定を失わないような態勢をとつているかどうかを確認するかまたは同人に加速する旨を告げて安定措置をとらせた上で加速進行するなど事故発生の危険を未然に防止すべき業務上の注意義務がある」とはいえない。

そこで、つぎの問題は、被告人に原判示の「一時停止して(鯉川健運転の)右貨物自動車を通過させた後進行する」注意義務があつたかどうかであるが、右各実況見分調書、原審証人鯉川健の供述調書、被告人の司法警察員ならびに検察官に対する供述調書を綜合すれば、本件事故のあつた交差点は、被告人が南進した南北の幅八・一米のアスフアルト舗装の直線の車道と、鯉川健が普通貨物自動車を運転して西進した東西の幅約一二米(但し中央の幅七・三米のみ舗装)の直線の車道とが直角に交差する交通整理の行われていない交差点で、前者の車道両側にはそれぞれ三・五米幅の、後者のそれの両側にはそれぞれ六米幅の歩道が存在しているので、南進する被告人からも西進する鯉川からも相互の車輛の確認は交差点の手前からなし得る状況にあつたこと、被告人は同交差点へは時速約一〇粁の速度で入り、二米余り進行してから鯉川の自動車がかなりの速度で交差点に向つて西進してくるのを認めたが、同車より早く交差点を通過できると判断して、加速のためスロツトルを急開してやゝ右へ転把しながら五米余り進行したが、同車が何ら減速せず、そのまゝの速度で進行してくるので危険を感じ、そのまま加速しながら約六米ばかり進行したら、後部荷台に乗つていた田中が転落したこと、同時に被告人は右自動車の約二・五米前を無事通過したこと、鯉川は被告人の車輛を既にそれが交差点へ入ろうとする直前に認識しているのであるが、その速度がおそかつたので停止してくれると思つて、単にブレーキペダルに足をのせただけで時速約四〇粁の従来の速度のまま進行したが、間もなく被告人が停止せずに、かえつて加速したのに気付き急ブレーキをかけて停止したこと、そのためスリツプ痕が交差点の手前約三・四米から停止地点の附近まで出来たこと、スリツプしながら交差点へ約七・五米入つたところで被告人が約二・五米前を通過したこと等が認められる。

これらの事実を綜合して按ずれば、被告人は本件交差点へは、除行したうえ鯉川より早く入つていたことは明らかであるとともに、鯉川は被告人が右のように交差点へ入つたときには未だ交差点の手前二〇米以上の地点にいたことが窺れる。してみると、鯉川はたとえ、その進行する道路が被告人のそれより幅員大であり、且つ左方に位置したとしても、被告人の車輛の進行を妨げてはならない道路交通法上の義務のあることはいうまでもないから、被告人がそのまゝ進行することは当然許容されることである。そして、たまたま鯉川が右義務に従い減速ないしは除行の措置に出なかつたために、仮に田中が衝突の危険を感じて後部荷台から飛降りたものとしても、被告人がかかる危険状態発生の可能性を予測しながら運転を継続したとみるべき証拠は記録上存在せず、しかして、被告人が加速する直前の、すなわち鯉川の自動車を発見したときの前叙客観的状況を前提に充分通過できるとのみ考えて進行したことには、非難可能性はなく、このことは被告人が鯉川が減速ないしは除行して自己の進行を妨げない筈だと(いわば信頼の原則を)仮に明確に意識せずに進行したとしても同断であるし、また、被告人が前叙危険を感じたときに急停止することは、かえつて危険でもあり、そのまゝ加速を続けたことは相当でもあると認められるから、被告人に如何なる意味においても「一時停止して鯉川の貨物自動車を通過させた後進行」する義務が存在したとはいえない。従つて、仮に前叙のように田中が飛び降りたものとしても、そのような危険な状況を造成した責任を被告人に帰せしめることは到底できないのである。

してみると、被告人には原判示の如き注意義務はなく、その他記録を精査しても、本件事故をもつて被告人の過失に基因すると窺うべき資料が存在しないから、原判決にはこれらの点に関し、事実誤認ないしは法令の解釈適用を誤つた違法があり、これらは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから原判決は破棄を免れない。これらの点に関する論旨は理由がある。

そこで、その余の所論に対する判断を省略し、刑事訴訟法三九七条により原判決を破棄し、四〇〇条但書に従い更に自ら判決する。

本件公訴事実の要旨は「被告人は、反覆して原動機付自転車を運転していたものであるが、昭和四〇年七月二〇日午後七時三〇分ごろ、乗車設備の設けられていない第一種原動機付自転車の後部荷台に田中主基男(当時三六年)を乗車させて運転し、時速約一〇粁で福岡市湊二丁目七の一一番地先道路に差しかかり、同所の交通整理の行われていない交差点を北方から南方へ向けて通過しようとした際、左側道路より同交差点へ時速約四〇粁で進入しようとしていた鯉川健運転の普通貨物自動車を左前方約三五米の地点に認めたが、かかる場合、原動機付自転車の運転者たるものは、一時停止して右普通貨物自動車を通過させた後進行するか、加速して同車の前方を通過しようとするにおいては、後部荷台に乗車している前記田中が加速による衝動で身体の安定を失わないような態勢をとつているかどうかを確認するかまたは同人に加速する旨を告げて安定措置をとらせた上で加速進行するなど事故発生の危険を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り漫然急激に加速して進行した過失により、急加速による衝動で右田中を自車後部荷台から路上へ転落させ、因つて同人をして、同月二一日午前一一時一〇分ごろ、同市大名一丁目二一一番地秋本医院において、脳内出血による呼吸麻痺により死亡させたものである。」というにあるが、前叙説示の理由により、被告人の過失を認めることができず、本件公訴事実は犯罪の証明がないことになるから、同法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

よつて主文のとおり判決する。

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